江戸時代の町民や農民は、幕府の将軍が何を考えていて、今日、どこで誰と会って、何を話したのかなんてこと、知る由もなかったよね。
平成の今は、知ろうと思えば割と簡単に手に入る情報になってしまった。
ちょっと昔までは、大人と子供の使うツールは全く違っていたよね。子供には使うことの出来ないツールを使って、大人は情報を得たり、思考を現実化していっていたと思う。
ところがどうだ。平成の今は、大人も子供も同じツールを使っている。ウチの中学生の娘も、知り合いに連絡する時は、私と同じツールを使っているからね。
大人と同じツールを使っている中学生の娘のことを、もう、子供扱いしてはいけないよね。彼女は私と同じ情報収集力を手中に収めているんだから。
いま、ものすごい勢いで同質化が進んでいると思う。
大人と子供という年齢の違いがあっても、使っているツールの同質化で、判断に必要な情報の収集能力に大きな違いがなくなってきている。
神戸に住んでいても、東京と変わらない上質なライフスタイルを実現することも、比較的容易になっている。日本であれば、どの都市に住んでもそんなに変わらないんだな、ということが神戸に住んでみてわかったんだ。情報の同質化と同じように、地域の同質化も進みきってしまっているように感じる。
情報の発信者は、この同質化からどうやって逃れるのかで四苦八苦している。
同質な情報を発信しても、誰にも注目されないからね。
同質化の先には、平凡な人生しか待ち受けていないとわかっているので、同質化の罠から自由でいつづけるためには、どのような価値観や生き方をしていかなければならないのか、模索は続いているが、まだ答えは見つかっていない……